2005年 12月 14日
歴史的河川遺構のある風景 |
■兼山の遺跡
国交省が可動堰の建設にともない撤去しようとしている、徳島県の吉野川第十堰も江戸時代に建設された固定堰です。この堰は250年も続く日本最大の石畳の堰だそうですが、高知県内には、350年前に築かれた「兼山の堰」が数多く残されています。松田川の「河戸堰」、仁淀川の「八田堰」、物部川の「山田堰」等が有名ですが、四万十川水系にも、兼山の遺跡があります。
【写真】河戸堰・松田川/宿毛市
このような歴史的に価値のある土木遺産の存廃を、現世の人の環境問題、生活問題だけで議論するのは如何なものでしょうか?四万十川には、坂本龍馬が工事に携わったという堤(水制・はね)があります。坂本龍馬の「あやかり行為」ではありませんが、このような、歴史的事実、あるいは遺跡を保存し、それを地域おこし、地域づくりにつなげることがあっても良いように思います。
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【河戸堰・松田川/宿毛市】
宿毛の北東を流れる松田川に作られた堰で、江戸時代前期、土佐藩奉行として強力に政治をすすめた野中兼山の指揮によって構築されたと伝承され、兼山独特の糸ながし工法とよばれる湾曲した形をしています。平成7年、堰の改修にともなう発掘調査がおこなわれ、兼山当時の遺構は発見されなかったものの、度重なる改修作業の跡が現れ、兼山当時から脈々とつづく土木技術が明らかとなりました。(「宿毛歴史舘」資料より)
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■昔の人ならどうしたか
宿毛市の松田川の可動堰を視察しましたが、改めて、昔の人はどうしていたのだろうかと感じることがありました。江戸時代の土佐藩の家老で、土木事業にたけていた野中兼山は、県内の各地で、川の治水や港湾などの事業を手がけましたが、松田川にあった堰もその一つでした・・・[more]
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【八田堰・仁淀川/いの町】
河口から9km付近に現存する八田堰は、兼山が指揮し慶安元年(1648)から承応元年(1652)まで5年を要して築いたものです。現在はコンクリートにより近代的に改修されていますが、元々の兼山遺構の八田堰は湾曲斜め堰で、施工にあたっては流水との調和を図るため川に綱を張り、流水による綱のたわみぐあいを調べて堰の方向や形状を決めたといわれています。また、左岸に弘岡井筋を作り、吾南平野約900haの灌漑用水路としてだけでなく、高知城下へ通じる物資の運送路としても利用していました。(「国交省河川局HP」より)
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■八田堰
野中兼山が築いた八田堰です。堰の下手が緩傾斜で斜めに落差しています。今は石の間はコンクリートで固められていますが昔は空石積みであったと思います・・・[more]
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【龍馬堤・四万十川/四万十市】
坂本龍馬が、四万十川の河川工事に携わったという記録があります。地元の郷土史家、数名が酒席でその話題になり、はたして龍馬は、どこの工事をしたのかという議論になりました。昔の地図、写真などで考察した結果、平元の堤(現在は「桜づつみ公園」)ではなかろうか、ということで落ち着きました。龍馬が改修工事に関わったであろう、この堤は、元々は、兼山が構築した水制(はね)という説もあります。
この公園を管理する国交省へ、堤の名称を「龍馬づつみ公園」に変更するように、お願いするとともに、この公園を「歴史・文化による地域おこし」の起爆剤にしたらどうか、という落ちで、その日の郷土史家の酒席は、お開きとなりました。
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■四万十川と龍馬と「歴史・文化」
四万十川上流は「坂本龍馬脱藩の道」がある!
四万十川下流は「坂本龍馬施工の堤」がある!
◆詳しくは、メルマガ:四万十通信120(17.12.20号)で。【登録】
国交省が可動堰の建設にともない撤去しようとしている、徳島県の吉野川第十堰も江戸時代に建設された固定堰です。この堰は250年も続く日本最大の石畳の堰だそうですが、高知県内には、350年前に築かれた「兼山の堰」が数多く残されています。松田川の「河戸堰」、仁淀川の「八田堰」、物部川の「山田堰」等が有名ですが、四万十川水系にも、兼山の遺跡があります。
【写真】河戸堰・松田川/宿毛市
このような歴史的に価値のある土木遺産の存廃を、現世の人の環境問題、生活問題だけで議論するのは如何なものでしょうか?四万十川には、坂本龍馬が工事に携わったという堤(水制・はね)があります。坂本龍馬の「あやかり行為」ではありませんが、このような、歴史的事実、あるいは遺跡を保存し、それを地域おこし、地域づくりにつなげることがあっても良いように思います。
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【河戸堰・松田川/宿毛市】
宿毛の北東を流れる松田川に作られた堰で、江戸時代前期、土佐藩奉行として強力に政治をすすめた野中兼山の指揮によって構築されたと伝承され、兼山独特の糸ながし工法とよばれる湾曲した形をしています。平成7年、堰の改修にともなう発掘調査がおこなわれ、兼山当時の遺構は発見されなかったものの、度重なる改修作業の跡が現れ、兼山当時から脈々とつづく土木技術が明らかとなりました。(「宿毛歴史舘」資料より)
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■昔の人ならどうしたか
宿毛市の松田川の可動堰を視察しましたが、改めて、昔の人はどうしていたのだろうかと感じることがありました。江戸時代の土佐藩の家老で、土木事業にたけていた野中兼山は、県内の各地で、川の治水や港湾などの事業を手がけましたが、松田川にあった堰もその一つでした・・・[more]
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【八田堰・仁淀川/いの町】
河口から9km付近に現存する八田堰は、兼山が指揮し慶安元年(1648)から承応元年(1652)まで5年を要して築いたものです。現在はコンクリートにより近代的に改修されていますが、元々の兼山遺構の八田堰は湾曲斜め堰で、施工にあたっては流水との調和を図るため川に綱を張り、流水による綱のたわみぐあいを調べて堰の方向や形状を決めたといわれています。また、左岸に弘岡井筋を作り、吾南平野約900haの灌漑用水路としてだけでなく、高知城下へ通じる物資の運送路としても利用していました。(「国交省河川局HP」より)
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■八田堰
野中兼山が築いた八田堰です。堰の下手が緩傾斜で斜めに落差しています。今は石の間はコンクリートで固められていますが昔は空石積みであったと思います・・・[more]
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【龍馬堤・四万十川/四万十市】
坂本龍馬が、四万十川の河川工事に携わったという記録があります。地元の郷土史家、数名が酒席でその話題になり、はたして龍馬は、どこの工事をしたのかという議論になりました。昔の地図、写真などで考察した結果、平元の堤(現在は「桜づつみ公園」)ではなかろうか、ということで落ち着きました。龍馬が改修工事に関わったであろう、この堤は、元々は、兼山が構築した水制(はね)という説もあります。
この公園を管理する国交省へ、堤の名称を「龍馬づつみ公園」に変更するように、お願いするとともに、この公園を「歴史・文化による地域おこし」の起爆剤にしたらどうか、という落ちで、その日の郷土史家の酒席は、お開きとなりました。
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■四万十川と龍馬と「歴史・文化」
四万十川上流は「坂本龍馬脱藩の道」がある!
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by kawauso100s
| 2005-12-14 07:13
| 地域づくり・地域おこし