2009年 05月 25日
コラム 家中茂氏(鳥取大学地域学部准教授) |
ローカルな視点に立つとき、これまで扱いかねていた難題について、「逆転の発想」とも言える手掛かりを得ることがある。次のような森林再生の取り組みは、鳥取県や山陰地方でも参考にしてよいのではないだろうか。
高知では、「限界集落」という言葉が、この地で生まれたように過疎高齢化が甚だしい。その結果、山には植林後の手入れも行き届かず、「線香」のような木々が放置されたままである。木材価格の低迷を背景に、間伐しようにも、その経費をまかなうことさえできないのだ。
このような山々を見るたび、打つ手がなく、呆然とした気持ちを抱かざるを得ない。近年、森林ボランティアが脚光を浴びることがあるが、実際にできることはせいぜい下草刈りか、枝打ち体験といった程度ではないだろうか。
ところが「土佐の森・救援隊」の活動を知り、この理解がひっくり返った。ボランティアで間伐して、さらに材を売って得た資金をもとに「地域通貨」を発行し、経済の地域循環に取り組んでいる。
つまり、間伐しても、経費を差し引いたら手元には何も残らないとされるが、その経費分の作業をボランティアを組織することでまかなっているのだ。
日本の多くの地域が林業産地でなかったことを考えれば、このような小規模林業の実践から多くのことを学べるに違いない。
「こうち森林救援隊」では、多くの市職員が活動に加わっているという。考えてみれば、農業で収穫に携わるのは一年中でごく一部の期間。しかし、林業であれば、年間通して収穫、すなわち間伐にかかわることができる。
また、農業であれば、水利や栽培管理など収穫以外の面で、長年の経験に基づいた作業が求められる。しかし林業では、自然に依存する側面が農業よりはるかに大きく、間伐さえきちんとやっていれば人為的を超えたところで自然が森を育てていく。まさしく「逆転の発想」だ。
森林再生という難題を前に、手をこまねいているばかりではなく、私たちが知恵を絞る余地はまだまだありそうだ。インター・ローカルなネットワークを構築することで、そのような知恵や経験をお互いにもっと生かし合っていこうではないか。(日本海新聞 2008.5.20)
高知では、「限界集落」という言葉が、この地で生まれたように過疎高齢化が甚だしい。その結果、山には植林後の手入れも行き届かず、「線香」のような木々が放置されたままである。木材価格の低迷を背景に、間伐しようにも、その経費をまかなうことさえできないのだ。
このような山々を見るたび、打つ手がなく、呆然とした気持ちを抱かざるを得ない。近年、森林ボランティアが脚光を浴びることがあるが、実際にできることはせいぜい下草刈りか、枝打ち体験といった程度ではないだろうか。
つまり、間伐しても、経費を差し引いたら手元には何も残らないとされるが、その経費分の作業をボランティアを組織することでまかなっているのだ。
日本の多くの地域が林業産地でなかったことを考えれば、このような小規模林業の実践から多くのことを学べるに違いない。
また、農業であれば、水利や栽培管理など収穫以外の面で、長年の経験に基づいた作業が求められる。しかし林業では、自然に依存する側面が農業よりはるかに大きく、間伐さえきちんとやっていれば人為的を超えたところで自然が森を育てていく。まさしく「逆転の発想」だ。
森林再生という難題を前に、手をこまねいているばかりではなく、私たちが知恵を絞る余地はまだまだありそうだ。インター・ローカルなネットワークを構築することで、そのような知恵や経験をお互いにもっと生かし合っていこうではないか。(日本海新聞 2008.5.20)
by kawauso100s
| 2009-05-25 21:55
| 森の話題